【謎】日本で遭難船が集まる無人島・鳥島『野村長平の話』 | プレTALK

遭難船が集まる島・・・そんなミステリースポットが日本に実在します。その島の名は『鳥島』もちろん日本海域内にあり、今なお、日本の都道府県のどこにも本籍を置かない。その歴史も謎多き島なんです。鳥島は一体どんな島なのでしょうか?なぜ遭難船が集まると言われているのか?また、鳥島に遭難して12年ぶりに生還した人がいます。彼の名は野村長平。野村長平はどうやって無人島で生き延び、脱出したのでしょうか。

どうぞご覧ください。

鳥島は日本の太平洋側、東京都庁からは大体、南東に約582kmに位置します。過去には、小笠原諸島に含まれたり、八丈島の付属になったりもしましたが、青ヶ島村(本籍地も住所も無い有人島)にも近いと言うことで、現在に至るまでその本籍が無い島です。

管理しているのは青ヶ島村と同じ、東京都八丈支庁。

江戸時代、遭難船がたびたび漂着していた鳥島は、無人島でした。明治時代には、アホウドリが生息していると言うことでその捕獲のために移住した人で、人口は最大300名になったこともありましたが、1902年(明治35年)には、火山の噴火により当時移住し、生活していた125名全員が死亡しています。大きな噴火を繰り返した島であることは、その丸い島の形からも想像できますね。鳥島の歴史を簡単にまとめると、幸せに暮らしていたアホウドリ達はたびたび遭難してくる船の乗組員の命を身をもって繋ぎ、のちに乱獲され絶滅寸前になり、島自体は噴火を繰り返し、1939年以降再び無人島となり、

現在は、希少な海鳥類の生息地として保護する目的で、国指定鳥島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定されています。

https://pilgrim-shikoku.net/nomurachohei

鳥島に漂着した有名人は『ジョン万次郎』ですが、ジョン万次郎が鳥島に滞在したのは143日間。しかも、ジョン万次郎は立ち寄った船に助けられての生還です。

ここで取り上げるのは、鳥島で12年間生き延びた『東洋のロビンソン・クルーソー』こと、野村長平。

野村長平が鳥島へ漂着したのはジョン万次郎漂着の56年前の話です。

鳥島へ漂着後、12年の時を経て自力で脱出した男。通称は『無人島長平』長平の本名はわかっていません。『野村』は生還後に土佐藩から名付けられました。12年間無人島で過ごした長平は、孤独の中一人で生き延びたわけではありません。

なぜなら、鳥島は遭難船がなぜか漂着する島だったからです。

長平が鳥島へ遭難したのは、1785年(天明5年)現在の高知県香南市から、高知県田野市へ御蔵米を運搬した帰り道、

嵐に遭遇し、帆や舵を奪われ遭難。約12日間漂流し、鳥島にたどり着いたそうです。

地図で見るとわかりやすいですが、この距離を帰りたかっただけなのに・・・嵐に見舞われ、黒潮に身を任せるしかなく、太平洋を北上して約600kmも離れた無人島にたどり着きます。当時、一緒に鳥島にたどり着いたのは長平を含めて4人。長平が推定24歳の時でした。火を起こすことも困難で、捕獲したアホウドリが主な食糧だったと言われていますが、そのほとんどは生食されていたようです。そんな中、漂着から2年経った頃には仲間は死去し、長平一人が生き残ったそうです。アホウドリの不在期間用に肉は干して干し肉として保存。雨水をアホウドリの卵の殻に貯め1日に卵1個分の水分を摂取していたと言います。アホウドリは余すことなく、羽は木の皮と縫い合わせ衣類などの布物にし、その脂肪も油分として灯油などの代わりに使用したそうです。

漂着当初は月を観測して月日を把握。その後は木片から数珠を毎日1個ずつ掘り出し、月日を数えました。

亡くなった3人の知恵も長平が生き延びる役に立ったでしょうね。

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長平が鳥島にたどり着いて3年後の1788年に、大阪からの遭難船が11名の乗組員を引き連れて鳥島に漂着します。さらに2年後には九州の宮崎から6人の乗組員を乗せた船も漂着します。結果的に長平は鳥島に漂着から5年後、総勢17名の仲間ができます。同時にそれぞれの船に積まれていた大工道具なども手に入れることになります。長平を筆頭に、2隻の船の舟頭2名をリーダー格にしての共同生活が始まります。仲間を得た長平は、食糧の確保や住居や道の整備を開始。仲間と道具を得て、少しでも快適に鳥島で生き延びていく為の生活。それでも医療は無い無人島生活。総勢18名のうち4人が4年を待たずに命を落とします。その後、鳥島で生活をしながら脱出するために船を作成することにします。

鳥島脱出計画が開始されたのは、長平が鳥島に漂着から7年後のことでした。

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鳥島からの脱出計画が開始され、脱出の為の造船は船が波にさらわれないように、小高い丘の上で行いました。素材は主に流木です。幸運なことに無人島では十分では無いとはいえ、大工道具はその後の遭難者が持っていましたし、帆に利用するために遭難者の衣服なども利用したそうです。鳥島に残された14人で乗り込む予定の頑丈な船を作成するかたわら、船を海岸まで下ろす幅5メートル、全長9メートルに渡る経路も岩などをノミで削って道を作り出したそうです。船と海までの道の制作期間はおよそ5年。壮大な脱出計画です。

しかも計画実行中には、その時に使った道具や無人島生活に必要最低限の道具

鳥島での生活のための知恵、アホウドリを保存する方法なども記し、船の模型に至るまでを

その後の遭難者のために洞窟の中に収め、わかりやすいように標識を立てたそうです。

その洞窟を探検してみたいと思わせるワクワク感もありますね。(※個人での実行は危険です)

こうして12年に及ぶ、無人島でのサバイバル生活が終わりを迎え、脱出計画が実行されることになります。

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いよいよ鳥島からの脱出計画が始動したのは、1797年6月。長平と13人の遭難者全員が船に乗り込み、無事に辿り着いたのは八丈島でした。12年に及ぶ長平の無人島サバイバル生活に幕を下ろします。その後、幕府が用意した船に乗り込み、全員が江戸(東京)へ戻り、取り調べを終えたのち、無事それぞれの故郷へ帰って行きました。

長平が土佐へ戻ったのは1798年1月。なんと、地元では長平の13回忌が営まれていた所でした。

法要中に本人が顔を出すなんて、映画のような、コントのようなお話ですね。長平37歳。土佐藩から野村姓をもらい、妻子にも恵まれたそうです。

そして、12年に及ぶサバイバル生活の語りべとして生計を立て、60歳で数奇な人生からも脱出(天寿全う)したそうです。

いかがでしたか?今では無人島サバイバルの番組などもありますし、道具も豊富ですが、ほぼ単身、丸裸状態で無人島に投げ出された『無人島長平』普段食用として目にたこともない鳥を生肉で食し、孤独の中で過ごす年月で思いもよらぬ新たな遭難者と出会い脱出のために計画をたて、生き残った14人全員で生還するという、嘘のような本当のお話。遭難というと今では磁力が効かない不思議な場所というイメージもありますが、船や、航海の技術も今とは全く違う時代に、14人乗り込む船を手作りし、海路も定かでなかったであろう上に、海での遭難経験もありながら

果敢にも生き延びる為に再び海に出た男たちのお話でした。

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