日本での映画化はもちろん、ハリウッドでもリチャードギア主演でリメイクされ、日本一有名な犬『秋田犬のハチ』幸せに過ごしたのは最初の1年4ヶ月。人生のほとんどを邪魔者扱い同然で過ごしたハチそれでも飼い主を待ち続ける健気な姿は映画であっても涙なしで見ることはできませんね。渋谷のハチ公の銅像前は待ち合わせはもちろん観光名所ですが、ハチ公の銅像はハチがまだ生きていた時に建てられています。
ここでは、そんな忠犬ハチ公について、『世界のなんだコレ!?ミステリー』がハチについて詳細に追った真実を中心になぞらえていきたいと思います。
ハチは1923年11月10日秋田県北秋田郡三井田村で生まれたとの記述があります。大正時代、犬の誕生日が詳細に残っているのは珍しいですが、父犬の名前『大市内』・母犬の名前『胡麻』・同時出生したのが8頭だったとまでの詳細な情報があります。赤毛の子犬だったようです。今で言うブリーダーのもとで生まれたようですね。生後50日たった頃の1924年1月14日・東京渋谷区在住で、東京帝国大学農学部の博士だった上野英三郎氏に引き取られます。その移動は米俵の袋に入れられて、列車で荷物と一緒に20時間かけて運ばれたそうです。随分と乱暴に聞こえますが、遠方のブリーダーから犬を引き取る時、ケージに入れて貨物で運ばれることは現在もあります。ケージか、米袋だったかの違いですね。子犬の心細さは同じでしょう。当時上野英三郎氏と、内縁の妻・八重子の間には子供がおらず、(親族の反対で籍を入れられなかったとの事情があるので、子を儲けなかった可能性があります)先住犬のジョンとエスが暮らす上野家に3匹目の犬として、待望で迎えられた秋田犬ハチは、当然ながら我が子同然に大切にされます。子犬の時は体が弱く、夫婦が徹夜で看病することもあったそうです。上野氏の愛情はもちろん、特にジョンは面倒見が良く、ハチは愛情たっぷりの中過ごすことになります。
が・・・その幸せな時間は長くは続きませんでした。
上野家に来て半年後、すっかり生活にも馴染んだハチはご主人の上野英三郎氏の送り迎えが日課になっていたそうです。ある日は最寄りの渋谷駅までの5分ほどの道のり、時には駒沢にある上野氏が務める大学前まで15分ほどの道のり。ご主人を送り届けた後は、1匹で自宅へと戻ります。そして、夕方になると上野氏を迎えに、また1匹で出かけます。そして上野氏を見つけると嬉しそうに駆け寄り一緒に自宅へと向かいます。ハチの賢さにも驚きますが、愛犬と飼い主の信頼関係。そして何よりハチにとってはただのお散歩ではなく、心の底から幸せな時間だったのでしょうね。ご主人の送り迎えが日課になっていたハチは、そんな日々が突然終わるなんて想像もしなかったことでしょう。
この先もずっと、横目にご主人を見ながら歩く道に幸せを感じて過ごして行くのだと思っていたでしょう。
ところが残酷なことに、そんな日々はたった1年4ヶ月ほどで終わりを迎えてしまいます。
1925年5月21日・この日は朝、大学まで一緒に行ったので大学までご主人を迎えに行ったハチ。待てど暮らせどご主人の姿が見えないので、慌てて渋谷駅に移動。駅から出てくる人混みの中でご主人を見落とすまいと懸命に探しますが、ご主人の姿は一向に現れません。現れるはずもありませんでした。上野氏は職場の東京帝国大学で、脳溢血により急去していました。その後、どのように自宅に戻ったのかは不明ですが、上野氏の通夜・葬儀の3日間、上野氏の着物と一緒に小屋にこもり食事にも口をつけなかったそうです。人間ももちろん、愛する人とのお別れは辛いものですが、このときのハチの心情を想像しただけでも胸が締め付けられる思いです。そして、ご主人が亡くなったことを受け入れられず、連日渋谷駅に向かうハチの姿は有名ですが、上野氏の急逝後、傷心のハチの居場所や暮らしについては、いろんな説がありました。渋谷駅周辺の大規模再開発に伴い、度々浮上するハチ公の移転計画を機に、『世界のなんだコレ!?ミステリー』では当時の関係者約200人を取材しその詳細をまとめていました。
ここまでのハチ。1923年11月10日に生まれたハチは翌年1月14日に上野家に迎えられます。
ご主人の送迎散歩が日課になっていた1925年5月21日ご主人が帰らぬ人となりました。
上野氏が急な不幸に見舞われ、内縁関係だった八重子さんは上野氏と暮らした家を出ていかなければならなかったそうです。急な事で知人宅に身を寄せることになった八重子さんはハチを連れて行くことができず、ハチはまた別の知人宅へ預けられることになり、傷心のハチは頼りの奥様とも離れて暮らすことになってしまいます。知人に預けられたハチは終日鎖に繋がれ、散歩もほとんど連れて行ってもらえませんでした。また、ハチは秋田犬。体も大きく食事量も多いのでお金がかかると厄介扱いを受けたそうです。
そんなある日、鎖を解いてもらったハチはその家の女性客を八重子さんと勘違いし、飛びついてしまいます。
このことをきっかけに、この家でおいてもらえなくなったハチは次に、上野氏の親戚の元へ身を寄せますが、ここでも繋がれたままの生活になります。親戚の所でも、懐かないハチをたまに散歩に連れては行くものの、可愛がってはもらえません。それどころか、厄介者扱いは続きます。そんな生活を2年ほど続けたある日、ハチを見かねた上野氏の教え子たちが、ハチと八重子さんのために、世田谷に新居を用意してくれました。生前の上野氏がどれだけ人に慕われてたかもわかるエピソードです。八重子さんと新居で落ち着いたと思われるハチですが、ある日夕食の時間にハチの姿がありません。そして、すっかり夜が更けてからトボトボと帰ってきます。ある日、渋谷でハチにそっくりな犬を見かけたと言う話を聞いた八重子さんは、ハチが再び、渋谷駅に上野氏を迎えに行っていることを知ります。 なので、実際はご主人が亡くなってから2年ほどは、ハチは渋谷駅へ向かうことはできませんでした。八重子さんとの生活が始まって以降、渋谷駅へご主人を迎えに行く行動を再開したようです。 そこで八重子さんは、渋谷駅の近くに住む、上野家の出入りだった植木職人の小林菊次郎氏にハチを預かってほしいとお願いします。そこからの方がハチが渋谷へ行きやすいと考えたからだそうです。幸い小林氏はこの申し入れを受け入れ、ハチを預かります。そこから毎日のように、ハチは渋谷駅へと向かうことになります。ハチが渋谷駅に向かう理由はただ一つ、ご主人に会いたい思いなのですが、犬が単独でうろうろすることをよく思わない人もいますし、蹴られたりすることはもちろん、心無い人に首輪を盗まれ野犬と間違われ保健所に連れていかれそうにもなりました。決して他のものに攻撃を加えないハチはやられっぱなしです。それでもご主人ともう一度会いたいと言う希望を胸に連日渋谷駅を訪れます。ある日ハチは心無い人間からの攻撃だけでなく、本物の野犬に襲われ左耳が取れかけ垂れてしまいます。そんな生活を5年ほど続けた1932年。渋谷町から渋谷区になったことを取り上げた東京朝日新聞で、『いとしや老犬物語』としてハチのことが取り上げられます。すると状況は一変健気なハチの姿を一目見ようと、渋谷には人が集まります。そしてハチは敬意を称して『ハチ公』の愛称で知れ渡ります。1934年には、小学校(尋常小学校)で『恩を忘れるな』とハチのことが教科書に載り、同年4月には銅像が建てられました。4月21日のハチ公像の除幕式にはハチも同席しています。1934年3月8日まだ冬の気配が消えない早朝に、ハチは渋谷改札口とは反対側の路上でひっそりと息を引き取っています。11歳でした。改札の反対側は普段ハチがよらない場所なんだそうですが、ご主人を迎えに行く前に、それまで優しくしてくれた人々にあいさつに寄ったのではないかと噂されています。
そして、ボロボロになった身体を置いたハチを今度は上野氏が渋谷の改札口まで迎えにきてたのではないでしょうか。
ハチは命が亡くなってやっと最愛のご主人と再会出来たのかも知れません。
ハチの亡骸は大好きだったご主人の勤務先の東京帝国大学で病理解剖されています。その際は心臓や肝臓に大量のフィラリアが寄生し、腹水が溜まり、胃からは焼き鳥の串と思われるものが3本程出てきたそうです。その後平成23年に、ハチは再検査されています。そこでは心臓と肺に大きな癌が見つかったそうです。何より、胃に残った焼き鳥の串に切なさを感じます。
ハチは出されたものを残したら失礼だと思って必死で串も飲み込んだんじゃないかな・・・(個人の見解です)
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